忘れていたものに、逆襲される。
後から思えば、ということがこの二人には多い。
大学で迎える最初の夏、体育の講義の後、シャワールームで
考えてみればその男は、伊原さんに至近のブースを使っていた、とか
後期になるとほぼ全て講義が同じだった、とか。
同じ飲み会に参加する、ということは記憶する限りなかったが
伊原さん達がたまり場にしていた喫茶店で、
いつの間にか男がバイトしていた、とか。
もしそのまま、男が伊原さんを遠くから見詰めるだけで満足していたなら
何も起こらず、伊原さんも今とは違う伊原さんだったかもしれない。
いくらか薄気味悪く感ずることが増えたのは
冬休みに入るか入らないかのことで
講義中でも学食でも、あるいはただ学内を歩いている時でも
頭を巡らせば男の顔がきっとある、そういうのが日常となった。
男が自分に付き纏うのは、何か恨みでも買っているのか。
伊原さんが最初に思い浮かべたのは、その可能性だった。
大学生というのは、あらゆる欲望を満たす力も時間も
それ以前とは比較にならないほど手に入る。御多分に漏れず伊原さんも
気脈が通じた好みの相手なら、自由恋愛を謳歌していた。
だから、男の意中の相手を自分が摘み食いしたか
浮気心旺盛な彼女が、一夜の相手だったかして
男の恨みを買ったんじゃないか、そう考えるのがむしろ穏当だった。
さらに言えば、そういう男は他にいくらでもいた。
傷心の男たちに対する伊原さんの態度は終始一貫、
ただの一言「無視」で、この時も伊原さんはその態度を通した。
しかし自分を見る男の目に、その他の男達とは違う何かを嗅ぎ取り
女性誌のゴシップ欄に取り上げられるような刃傷沙汰に発展しやしないか
そんな警戒心が、動かなかったわけでもない。
ただそれも、男に対する認識と同じくそよぐ程度のもので
スキー三昧の冬休みを過ごす間に、男の存在ごと忘れた。
冬休みと春休みの間に、試験期間がある。
一応、伊原さんでも試験勉強はする。というわけで
図書館の机に向かっている時、ふと視線を感じて眼を上げると
そこに、男がいた。
試験シーズンの図書館はここぞとばかりに混み合うもので
席はほとんどが埋まっている。
だから、男が伊原さんの前に座っていたのは偶然だったかもしれない。
しかし、目が合った瞬間に男が見せた微笑に
伊原さんは、冷たいものを覚えた。
大学で迎える最初の夏、体育の講義の後、シャワールームで
考えてみればその男は、伊原さんに至近のブースを使っていた、とか
後期になるとほぼ全て講義が同じだった、とか。
同じ飲み会に参加する、ということは記憶する限りなかったが
伊原さん達がたまり場にしていた喫茶店で、
いつの間にか男がバイトしていた、とか。
もしそのまま、男が伊原さんを遠くから見詰めるだけで満足していたなら
何も起こらず、伊原さんも今とは違う伊原さんだったかもしれない。
いくらか薄気味悪く感ずることが増えたのは
冬休みに入るか入らないかのことで
講義中でも学食でも、あるいはただ学内を歩いている時でも
頭を巡らせば男の顔がきっとある、そういうのが日常となった。
男が自分に付き纏うのは、何か恨みでも買っているのか。
伊原さんが最初に思い浮かべたのは、その可能性だった。
大学生というのは、あらゆる欲望を満たす力も時間も
それ以前とは比較にならないほど手に入る。御多分に漏れず伊原さんも
気脈が通じた好みの相手なら、自由恋愛を謳歌していた。
だから、男の意中の相手を自分が摘み食いしたか
浮気心旺盛な彼女が、一夜の相手だったかして
男の恨みを買ったんじゃないか、そう考えるのがむしろ穏当だった。
さらに言えば、そういう男は他にいくらでもいた。
傷心の男たちに対する伊原さんの態度は終始一貫、
ただの一言「無視」で、この時も伊原さんはその態度を通した。
しかし自分を見る男の目に、その他の男達とは違う何かを嗅ぎ取り
女性誌のゴシップ欄に取り上げられるような刃傷沙汰に発展しやしないか
そんな警戒心が、動かなかったわけでもない。
ただそれも、男に対する認識と同じくそよぐ程度のもので
スキー三昧の冬休みを過ごす間に、男の存在ごと忘れた。
冬休みと春休みの間に、試験期間がある。
一応、伊原さんでも試験勉強はする。というわけで
図書館の机に向かっている時、ふと視線を感じて眼を上げると
そこに、男がいた。
試験シーズンの図書館はここぞとばかりに混み合うもので
席はほとんどが埋まっている。
だから、男が伊原さんの前に座っていたのは偶然だったかもしれない。
しかし、目が合った瞬間に男が見せた微笑に
伊原さんは、冷たいものを覚えた。
それが全ての始まりであり、終わりでもあった。
その男のことを語る伊原さんの口調には
憎悪もなければ嫌悪もない。それどころか
一切の感情が漂白され尽くし、まるで博物館の白い骨だ。
もっともこれは、この話を語り続ける間の一貫した態度で
ある意味、カーナビの音声よりいくらかマシというレベル。
それは恐らく、数限りなく思い返し
それこそ、暗唱できるくらい何度も繰り返してきたから
感情という信号が、擦り切れてしまったんじゃないだろうか。
伊原さんの大学も僕の場合と同じく
最初の数年間は一般教養に多くの時間を費やす。
そこではあらゆる学部の学生が混ざり合い、
90%以上は一期一会の半期を過ごすものだ。
後で知ったところでは、その男は哲学系の学科に所属していた。
伊原さんと違って、1年の浪人生活の末入学したらしく
年齢は一つ上だった。
大学での交友関係は、
同じ学科あるいは同じサークルという点を中心に拡散する。
伊原さんが拡げた円の、どことも接点を持たないはずの男と
どこで最初に顔を合わせたのか、言葉を交わしたのか
思い出すのも困難なほど軽微薄弱な接点だったが
友人その他の証言や、記憶をまさぐり尽した結果
ようやく、代返を頼んだのが最初だったと思い当てた。
出席の取り方は大学によっても教授によっても違うだろうし
昨今のキャンパスなら、もっと先端的な手法が主流かもしれない。
思い当たったのは、大教室での講義
終盤になると教授が学籍番号と氏名を記入する用箋を配る。
その場合の代返は、前から回ってくる用箋を余分に受け取り
本当はその場にはいない人間の名前を書き込んで提出する、というやり口。
いつもなら、多少でも見知った相手に頼むのだが
どうにも知った顔を見つけられないこともある。
そんな時、講堂の後ろの方に並ぶ顔の中から
特に大人しそうな真面目そうな、さらに気弱そうなのを選び出し
悪いんだけど、と笑い掛け、自分の氏名・学籍番号を記したメモを渡す。
そして、今より個人情報というものに鷹揚だった時代
学籍番号からは様々な情報を得ることができた。
最初がどうだったかはなかなか思い出せないものだが
その男がいくつか共通の講義を選択し
学内で擦れ違えば、どこかで見た顔だと思い当たる
その程度の相手だということには、自覚があった。
自覚といってもそれは、微風程度にそよぐもので
別に、手を上げて挨拶するわけでも、しかと視線を交えるわけでもない。
伊原さんにとっては、そうだった。けれど
相手にとっては、そうではなかった。
憎悪もなければ嫌悪もない。それどころか
一切の感情が漂白され尽くし、まるで博物館の白い骨だ。
もっともこれは、この話を語り続ける間の一貫した態度で
ある意味、カーナビの音声よりいくらかマシというレベル。
それは恐らく、数限りなく思い返し
それこそ、暗唱できるくらい何度も繰り返してきたから
感情という信号が、擦り切れてしまったんじゃないだろうか。
伊原さんの大学も僕の場合と同じく
最初の数年間は一般教養に多くの時間を費やす。
そこではあらゆる学部の学生が混ざり合い、
90%以上は一期一会の半期を過ごすものだ。
後で知ったところでは、その男は哲学系の学科に所属していた。
伊原さんと違って、1年の浪人生活の末入学したらしく
年齢は一つ上だった。
大学での交友関係は、
同じ学科あるいは同じサークルという点を中心に拡散する。
伊原さんが拡げた円の、どことも接点を持たないはずの男と
どこで最初に顔を合わせたのか、言葉を交わしたのか
思い出すのも困難なほど軽微薄弱な接点だったが
友人その他の証言や、記憶をまさぐり尽した結果
ようやく、代返を頼んだのが最初だったと思い当てた。
出席の取り方は大学によっても教授によっても違うだろうし
昨今のキャンパスなら、もっと先端的な手法が主流かもしれない。
思い当たったのは、大教室での講義
終盤になると教授が学籍番号と氏名を記入する用箋を配る。
その場合の代返は、前から回ってくる用箋を余分に受け取り
本当はその場にはいない人間の名前を書き込んで提出する、というやり口。
いつもなら、多少でも見知った相手に頼むのだが
どうにも知った顔を見つけられないこともある。
そんな時、講堂の後ろの方に並ぶ顔の中から
特に大人しそうな真面目そうな、さらに気弱そうなのを選び出し
悪いんだけど、と笑い掛け、自分の氏名・学籍番号を記したメモを渡す。
そして、今より個人情報というものに鷹揚だった時代
学籍番号からは様々な情報を得ることができた。
最初がどうだったかはなかなか思い出せないものだが
その男がいくつか共通の講義を選択し
学内で擦れ違えば、どこかで見た顔だと思い当たる
その程度の相手だということには、自覚があった。
自覚といってもそれは、微風程度にそよぐもので
別に、手を上げて挨拶するわけでも、しかと視線を交えるわけでもない。
伊原さんにとっては、そうだった。けれど
相手にとっては、そうではなかった。
琥珀の中に閉じ込められた昆虫が、黄金色の液体の中を泳ぐ。
そんなこと聞いてどうする、とか
伊原さんはもう言わなかった。
聞いたら後悔するとか、なんとか
途中で耳を塞ぐ準備を、させようともしなかった。
伊原さんにとってあの出来事は、その他全ての事象から切り離された
特異な現象なんだろう。
記憶、というのとは違う。
なぜなら、時間の仕切りが曖昧で、過去でも現在でもない。
昨日のことのように思い出すことも、
すぐ隣の今として感じ取ることもできる。
古文書の一節のようでもあり、
日に焼けた新聞記事のようでもある。
時間の感覚が一切失せた、ただそこにあるもの。
琥珀の中に閉じ込められた昆虫が、黄金色の液体の中で泳ぐようなもの。
それが、僕の印象だ。
話を整理するために、実際はそうではなかったが
できる限り、時系列に並べ替えてみる。
伊原家は兄弟二人。二つ違いの兄と弟。
僕と姉は三つ違いだから、年齢差の実感は似たようなものだろうか。
それとも男同士の兄弟だと、また違うものだろうか。
伊原さんの口ぶりから受ける印象は、もっとずっと歳の離れた弟のようだが
それは、弟が永遠に18であるのに対し兄は年々歳を重ねていくからか。
兄に比べて蒲柳の質、という伊原さんの表現から察するに
取っ組み合いの喧嘩をしたり、一緒に転げ回って遊ぶというより
保護する対象、あるいは、距離を置いて見守る対象だったのかもしれない。
小学校、中学校と少しずつ重なり合いながら同じ学校に通ったが
高校は別々だった。おそらくこの、思春期に初めて兄弟が手に入れた
お互いの存在を意識しなくても済む数年間が
二人の人格を決定的に分てたのだろう。
華やかな兄と、繊細な弟。
それは、太陽と月の隔たりだったかもしれない。
僕にもしこういう兄がいたら、憧れつつも
自分はその照り返しでしかないという自覚に苛まれるか
ただもう、崇拝する一方かのどちらかだと思う。
果たして、伊原さんの弟はどちらだったか。
自覚としては後者、潜在意識としては前者、だったように思われる。
様々なことを照らし合わせれば、そういう分析が成り立つ。
大学に進むと、男は家にいる時間が短くなる。
伊原家の長男もその通りで、弟だけでなく両親とも
顔を合わせる時間は、ごく限られた。
だから、大学受験に備えて弟に家庭教師がついたことも
その家庭教師が自分と同じ大学に籍を置く人物で
ただならぬ執着を自分に対して示す男だということに気付いたのは、
ずっと後になってからのことだった。
伊原さんはもう言わなかった。
聞いたら後悔するとか、なんとか
途中で耳を塞ぐ準備を、させようともしなかった。
伊原さんにとってあの出来事は、その他全ての事象から切り離された
特異な現象なんだろう。
記憶、というのとは違う。
なぜなら、時間の仕切りが曖昧で、過去でも現在でもない。
昨日のことのように思い出すことも、
すぐ隣の今として感じ取ることもできる。
古文書の一節のようでもあり、
日に焼けた新聞記事のようでもある。
時間の感覚が一切失せた、ただそこにあるもの。
琥珀の中に閉じ込められた昆虫が、黄金色の液体の中で泳ぐようなもの。
それが、僕の印象だ。
話を整理するために、実際はそうではなかったが
できる限り、時系列に並べ替えてみる。
伊原家は兄弟二人。二つ違いの兄と弟。
僕と姉は三つ違いだから、年齢差の実感は似たようなものだろうか。
それとも男同士の兄弟だと、また違うものだろうか。
伊原さんの口ぶりから受ける印象は、もっとずっと歳の離れた弟のようだが
それは、弟が永遠に18であるのに対し兄は年々歳を重ねていくからか。
兄に比べて蒲柳の質、という伊原さんの表現から察するに
取っ組み合いの喧嘩をしたり、一緒に転げ回って遊ぶというより
保護する対象、あるいは、距離を置いて見守る対象だったのかもしれない。
小学校、中学校と少しずつ重なり合いながら同じ学校に通ったが
高校は別々だった。おそらくこの、思春期に初めて兄弟が手に入れた
お互いの存在を意識しなくても済む数年間が
二人の人格を決定的に分てたのだろう。
華やかな兄と、繊細な弟。
それは、太陽と月の隔たりだったかもしれない。
僕にもしこういう兄がいたら、憧れつつも
自分はその照り返しでしかないという自覚に苛まれるか
ただもう、崇拝する一方かのどちらかだと思う。
果たして、伊原さんの弟はどちらだったか。
自覚としては後者、潜在意識としては前者、だったように思われる。
様々なことを照らし合わせれば、そういう分析が成り立つ。
大学に進むと、男は家にいる時間が短くなる。
伊原家の長男もその通りで、弟だけでなく両親とも
顔を合わせる時間は、ごく限られた。
だから、大学受験に備えて弟に家庭教師がついたことも
その家庭教師が自分と同じ大学に籍を置く人物で
ただならぬ執着を自分に対して示す男だということに気付いたのは、
ずっと後になってからのことだった。
マーティニ、あるいはプレパラートで泳ぐアメーバ。
カクテルめいた飲み物。
酒が淡白なウィスキーかティフィンなら、ウィルキンソンのジンジャーエール。
もしそれがジンなら、同じくウィルキンソンのトニックウォーター。
でもジンが、冷凍庫で余分な水分を凍結させ
とろりと輝くボンベイ・サファイアなら、思い切ってマーティニでもいい。
グラスは、一頃凝ったバカラかサンルイ。
あるいは、瑠璃色を凝縮させたイランのグラス。
気泡と傷と歪みを持って生まれたインドのグラスは
日が射すと、プレパラートで泳ぐアメーバみたいな影を作る。
そういうものを見ていると、面白いことなどなくても
自然と顔には、笑みが浮かんでくるもの。
それから意を決して、生のウィスキーに進出する。
後はもう、その日の体調あるいは気分次第。
というのが、僕の夏の午後で
その日も、だいたいこの手順通りに血中アルコール濃度を高めた。
けれど不思議なことに、一人で飲んでいれば
とっくに足元がおぼつかなくなる量を飲んでいても
相手がいると、そうでもない。
ちゃんと食べてから飲み始めたからか?それとも、トマトか桃か、
特定の食材がアルコール分解を円滑にしているのか?
夏の日差しはまやかしで、時間の経過を忘れさせる。
今の季節なら、とっくに夕暮れという時間でも
まだ太陽は力を失わず、一日の終わりはまだ先と頑なだ。
その時、何を話していたのか。
伊原さんは、僕の夏休みを聞きたがった。
シティボーイのこの人にとって、僕のような田舎暮らしは
まるで遠い国のおとぎ話でも聞くようなものなんだろう。
川沿いの草むらには今も昔もマムシ注意の看板があって
きっと今でも、学校の終業式ではマムシ対処法の講義がある。
雨が降る前と止んだ後には、どういう訳かカエルが威勢よく鳴く。
カブトムシは買うものではなく拾うもので、
今でもアスファルトの道が這い入らない山がいくつもある。
気分よく酔った時によく見せる、気分よさそうな微笑を浮かべ
伊原さんはそんな話を聞いていた。
伊原さんのこと、話してください
と僕は言ったんじゃないだろうか。
別に、何も、話すようなこともない夏だ
と、伊原さんは答えた。
そんな夏になったのは、いつからですか
あるいは、
そんな夏になったのは、なぜですか
たぶん、始まりはそんな僕の質問だったと思う。
酒が淡白なウィスキーかティフィンなら、ウィルキンソンのジンジャーエール。
もしそれがジンなら、同じくウィルキンソンのトニックウォーター。
でもジンが、冷凍庫で余分な水分を凍結させ
とろりと輝くボンベイ・サファイアなら、思い切ってマーティニでもいい。
グラスは、一頃凝ったバカラかサンルイ。
あるいは、瑠璃色を凝縮させたイランのグラス。
気泡と傷と歪みを持って生まれたインドのグラスは
日が射すと、プレパラートで泳ぐアメーバみたいな影を作る。
そういうものを見ていると、面白いことなどなくても
自然と顔には、笑みが浮かんでくるもの。
それから意を決して、生のウィスキーに進出する。
後はもう、その日の体調あるいは気分次第。
というのが、僕の夏の午後で
その日も、だいたいこの手順通りに血中アルコール濃度を高めた。
けれど不思議なことに、一人で飲んでいれば
とっくに足元がおぼつかなくなる量を飲んでいても
相手がいると、そうでもない。
ちゃんと食べてから飲み始めたからか?それとも、トマトか桃か、
特定の食材がアルコール分解を円滑にしているのか?
夏の日差しはまやかしで、時間の経過を忘れさせる。
今の季節なら、とっくに夕暮れという時間でも
まだ太陽は力を失わず、一日の終わりはまだ先と頑なだ。
その時、何を話していたのか。
伊原さんは、僕の夏休みを聞きたがった。
シティボーイのこの人にとって、僕のような田舎暮らしは
まるで遠い国のおとぎ話でも聞くようなものなんだろう。
川沿いの草むらには今も昔もマムシ注意の看板があって
きっと今でも、学校の終業式ではマムシ対処法の講義がある。
雨が降る前と止んだ後には、どういう訳かカエルが威勢よく鳴く。
カブトムシは買うものではなく拾うもので、
今でもアスファルトの道が這い入らない山がいくつもある。
気分よく酔った時によく見せる、気分よさそうな微笑を浮かべ
伊原さんはそんな話を聞いていた。
伊原さんのこと、話してください
と僕は言ったんじゃないだろうか。
別に、何も、話すようなこともない夏だ
と、伊原さんは答えた。
そんな夏になったのは、いつからですか
あるいは、
そんな夏になったのは、なぜですか
たぶん、始まりはそんな僕の質問だったと思う。
アルコール抜きの夏の午後なんて、ガスの抜けた炭酸水みたいなもの。
伊原さんが僕の家に着いたのは、予定よりも遅れて
14時近くだったと思う。途中、渋滞に巻き込まれたらしい。
大きくて赤いバカラの紙袋には
食べ頃の桃だけでなく、奥さんに持たされたランチも入っていた。
冷製パスタと、ローストビーフを挟んだフランスパンのサンドウイッチ
ちゃんと保冷剤も添えて、タッパーウェアが少し汗をかいている。
デザートには桃をどうぞ、そういうことだろう。
パスタは買い置きの、なんでもかんでも同じ太さ、なんてことはなく
正式名は知らないが、冷製向きの素麺みたいに細いパスタをちゃんと選んで、
しかもそういうものを普段から備えておくあたり
やっぱりあの奥さんだな、なんて考えながら
フランスパンの旨さを噛み締めたりする。
夏の午後、至福のランチだ。
本当は、よく冷えたワインでもあれば言うことなしだが
伊原さんは車だから、そんなわけにもいかない。
クーラーなしでも凌げるくらい、風通しがいいのが自慢のリビングで
アイスコーヒーが心持ち興ざめだが、皿に移したランチを
多くは僕が消費して、伊原さんは付き合い程度に口をつけただけだった。
僕の今の家はメゾネットタイプ、言ってみれば普通の2階建てで
棟続きの隣家は、空いたままだ。
小さいながら、庭もある。その庭に、赤いカンナが咲いていた。
自分で植えたのか、と尋ねられたから
これでも趣味は園芸ですから、二階のベランダはちょっとしたものですよ
と答え、そのベランダに面しているのは寝室だと思い当たり
ちょっと口をつぐむ。
アルコール抜きの夏の午後なんて、ガスの抜けた炭酸水みたいなもの
そのあたりの見解は、僕も伊原さんも共通している。
アルコールが法定値を下回るまでどれくらいの時間を要するのか
考えてみたところで分からない。俺のことは気にするなよ、と
伊原さんはアイスコーヒーの氷をカラカラと回す。
いやそんな、でもそんな、とか言いつつ
結局、ごく軽いアルコールに一人手を出す後ろめたさは
ティフィンのジンジャーエール割りに溶け出していく。
オレンジかレモンを添えるのが正式だろうけど、ここは割愛。
メイドインインディアのグラスは、ガラスの組成が粗く
透明ではなく、ごくごく淡い青緑。
盆に実家から、カナディアンクラブを盗んで来たんですけどね
これをジンジャーエールで割ると、悪くないんですよ
伊原さんは僕を見て笑い、中指で奇麗に煙草の灰を落とす。
最悪、泊っていくことになるな?
そう、確かに。伊原さんは軽く語尾を上げた。
暑い盛りはさんざん飲んで眠り、涼しくなる頃目を覚ます
僕の夏はだいたい、そんなものです
伊原さんは肩を竦め、ベンツのキーをコーヒーテーブルに投げ出した。
14時近くだったと思う。途中、渋滞に巻き込まれたらしい。
大きくて赤いバカラの紙袋には
食べ頃の桃だけでなく、奥さんに持たされたランチも入っていた。
冷製パスタと、ローストビーフを挟んだフランスパンのサンドウイッチ
ちゃんと保冷剤も添えて、タッパーウェアが少し汗をかいている。
デザートには桃をどうぞ、そういうことだろう。
パスタは買い置きの、なんでもかんでも同じ太さ、なんてことはなく
正式名は知らないが、冷製向きの素麺みたいに細いパスタをちゃんと選んで、
しかもそういうものを普段から備えておくあたり
やっぱりあの奥さんだな、なんて考えながら
フランスパンの旨さを噛み締めたりする。
夏の午後、至福のランチだ。
本当は、よく冷えたワインでもあれば言うことなしだが
伊原さんは車だから、そんなわけにもいかない。
クーラーなしでも凌げるくらい、風通しがいいのが自慢のリビングで
アイスコーヒーが心持ち興ざめだが、皿に移したランチを
多くは僕が消費して、伊原さんは付き合い程度に口をつけただけだった。
僕の今の家はメゾネットタイプ、言ってみれば普通の2階建てで
棟続きの隣家は、空いたままだ。
小さいながら、庭もある。その庭に、赤いカンナが咲いていた。
自分で植えたのか、と尋ねられたから
これでも趣味は園芸ですから、二階のベランダはちょっとしたものですよ
と答え、そのベランダに面しているのは寝室だと思い当たり
ちょっと口をつぐむ。
アルコール抜きの夏の午後なんて、ガスの抜けた炭酸水みたいなもの
そのあたりの見解は、僕も伊原さんも共通している。
アルコールが法定値を下回るまでどれくらいの時間を要するのか
考えてみたところで分からない。俺のことは気にするなよ、と
伊原さんはアイスコーヒーの氷をカラカラと回す。
いやそんな、でもそんな、とか言いつつ
結局、ごく軽いアルコールに一人手を出す後ろめたさは
ティフィンのジンジャーエール割りに溶け出していく。
オレンジかレモンを添えるのが正式だろうけど、ここは割愛。
メイドインインディアのグラスは、ガラスの組成が粗く
透明ではなく、ごくごく淡い青緑。
盆に実家から、カナディアンクラブを盗んで来たんですけどね
これをジンジャーエールで割ると、悪くないんですよ
伊原さんは僕を見て笑い、中指で奇麗に煙草の灰を落とす。
最悪、泊っていくことになるな?
そう、確かに。伊原さんは軽く語尾を上げた。
暑い盛りはさんざん飲んで眠り、涼しくなる頃目を覚ます
僕の夏はだいたい、そんなものです
伊原さんは肩を竦め、ベンツのキーをコーヒーテーブルに投げ出した。

