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その夜。
お恥ずかしい話だが、僕は東北の地理には不案内で
「オナガワ」という響きに覚えはあったが、
「女川」と書き表すのだということは、後になって知った。
というくらいだから、女川には原発があり、
伊原さんが懸念を示したのは原発事故だった、と気づいたのは
フロアに戻って、随分経ってからのことだった。
日が沈む前に、徒歩で帰宅できる人間は退社すること
そうでない者は、社内に留まること
そういう方針が決まったあたりで、帰宅ルートを確認する人、
夕食の買い出しに出かける集団と行動が分かれたが
なんにしろ、エレベーターは止まっている。
何十階分の階段を下り上るのか
考えたところでどうしようもないので、非常階段がちょっとしたラッシュを起こす。
対策本部スタッフに組み込まれた顔ぶれは最終的に、
独身者が多かったように思う。
家族に連絡がつかないと顔色をなくす人もいたし、
途中で落ち合って、歩いて帰る算段をつけるのに成功した人もいた。
そう考えると僕なんかは気楽なもので、
固定電話で実家へ連絡が早々に付いたから後顧の憂いはない。
意思決定ボードの面々は、問答無用で足止めだったが。
自分の意志とは関係なく残留する対策本部で良かったことは
夕食を社員食堂謹製の弁当で手当てしてもらえたこと、だろうか。
オフィス近辺のコンビニは軒並み品切れ、
飲食店も閉店時間を早めたという話を聞いた。
一方、どうせ帰れないなら朝まで飲むという豪の者もいたが、どうなったことか。
僕は一向に連絡がつかず情報収集が進まない関係先の動向に、
気を揉むしかなかった。
19時を過ぎたあたりで再度招集が掛かり、弁当の配給とともに
1時間ごとに状況報告を行うことが通達される。
「不明」というのも、立派な情報なのだということには
小さな驚きと、微かな困惑があった。
自動販売機でお茶でも買って戻ろうと、弁当片手に小銭を探っていると
覚えのある香りが鼻先に届き、伊原さんだと知る。
気になっていた奥さんの様子を尋ねると、
今はちょうど都内のマンションに滞在する時期で
ピンピンしている、という淡白な答えが返ってきた。
僕にとっては、その日一番で唯一の朗報だったのだが。
「オナガワ」という響きに覚えはあったが、
「女川」と書き表すのだということは、後になって知った。
というくらいだから、女川には原発があり、
伊原さんが懸念を示したのは原発事故だった、と気づいたのは
フロアに戻って、随分経ってからのことだった。
日が沈む前に、徒歩で帰宅できる人間は退社すること
そうでない者は、社内に留まること
そういう方針が決まったあたりで、帰宅ルートを確認する人、
夕食の買い出しに出かける集団と行動が分かれたが
なんにしろ、エレベーターは止まっている。
何十階分の階段を下り上るのか
考えたところでどうしようもないので、非常階段がちょっとしたラッシュを起こす。
対策本部スタッフに組み込まれた顔ぶれは最終的に、
独身者が多かったように思う。
家族に連絡がつかないと顔色をなくす人もいたし、
途中で落ち合って、歩いて帰る算段をつけるのに成功した人もいた。
そう考えると僕なんかは気楽なもので、
固定電話で実家へ連絡が早々に付いたから後顧の憂いはない。
意思決定ボードの面々は、問答無用で足止めだったが。
自分の意志とは関係なく残留する対策本部で良かったことは
夕食を社員食堂謹製の弁当で手当てしてもらえたこと、だろうか。
オフィス近辺のコンビニは軒並み品切れ、
飲食店も閉店時間を早めたという話を聞いた。
一方、どうせ帰れないなら朝まで飲むという豪の者もいたが、どうなったことか。
僕は一向に連絡がつかず情報収集が進まない関係先の動向に、
気を揉むしかなかった。
19時を過ぎたあたりで再度招集が掛かり、弁当の配給とともに
1時間ごとに状況報告を行うことが通達される。
「不明」というのも、立派な情報なのだということには
小さな驚きと、微かな困惑があった。
自動販売機でお茶でも買って戻ろうと、弁当片手に小銭を探っていると
覚えのある香りが鼻先に届き、伊原さんだと知る。
気になっていた奥さんの様子を尋ねると、
今はちょうど都内のマンションに滞在する時期で
ピンピンしている、という淡白な答えが返ってきた。
僕にとっては、その日一番で唯一の朗報だったのだが。
その日。
高層ビルの耐震構造は、崩れない代わりに揺れる、というか、しなる。
日頃から資料を山積みしてるメンバーのデスクで紙雪崩が起こった以外に
被害らしい被害はなかったものの、いつまでもビルはゆらりゆらり
喫煙ルームから見える隣のビルを見て、
自分のところも同じように見えるんだろうと考える。
しばらくして、お台場の火災や千葉のコンビナート爆発の炎をオフィスから目撃し
これは、とんでもないことになっているのかもしれない、と多くの同僚が実感した。
その頃からUstreamでニュースを確認し始めるメンバーが現れ
津波の映像を目撃し、震源が東北であること、
阪神を上回る規模であることが分かった。
最初の揺れ以降、エレベーターは停止したままで
降りることもできないが、昇ってくることもできない。
携帯が通じにくくなり、辛うじてメールで、1階にいるけど上がれない
と、外出中のメンバーから連絡があった。
固定電話の方が通じやすいから、家族との連絡には固定を使うよう指示したが
都内の携帯へは固定からでもなかなか通じない。
すべての路線が停止している、JRは終日復旧の見通しが立たない、
ホテルはどこも満室といった情報が入る頃、僕は災害対策本部にいた。
全社観点から見れば僕が所属するのはラインだが
ライン単位で見ればスタッフなので、こういう時はスタッフが事務局になる。
一応、弊社にも災害時対応マニュアルはあり、エスカレーションフローから
意思決定ボードの設置ルールまで揃っている。
対策本部は社長室直下、経営企画と総務人事が本部事務局
取締役以下各COで構成される意思決定ボードの下部組織として
各ラインの災害対策本部は設置され、僕はそこに位置する。
最初の集合が掛かり、御前会議が開催される大会議室に入ると
モニターの半分にはNHKが映し出され、残り半分には東北地方の地図。
支社、営業所のほか、関係先もプロットされているが
今はまだ、何も追記されていない。
これから何が書き込まれるのか、経験がないからリアルな想像ができない
ただ、これはとんでもないことになるという漠とした不安だけが
抽象なだけに自由奔放に頭と心を駆け巡り、
最終的には喉に詰まって言葉を塞ぐ。
続々と集まるCOの中に伊原さんの姿を見つけ、相手も僕を見つけ
振り向きざまの一瞬に、懸念を眉間に刻んで足早に着席する。
本部事務局から、東北の拠点と連絡がつかない、という報告が入る。
ただ、個人のツイッターを通じて建物に大きな被害はないと確認されたが
いかんせん、個人のツイッターだ。
だが、ツイッターは通じるらしいことも分かり
至急、災害対策専用の企業アカウントを取得し、全社メールで通知する。
これは、マニュアルになかったことだった。
あまりにも、情報が不足している。
本部は全従業員の、ラインは各関係先の情報収集を急ぎつつ
都内従業員の帰宅困難者対策に着手する、
と一先ず手配りが決まった後、
たぶん伊原さんだろう、女川は大丈夫か
と呟いたのが、耳に残った。
日頃から資料を山積みしてるメンバーのデスクで紙雪崩が起こった以外に
被害らしい被害はなかったものの、いつまでもビルはゆらりゆらり
喫煙ルームから見える隣のビルを見て、
自分のところも同じように見えるんだろうと考える。
しばらくして、お台場の火災や千葉のコンビナート爆発の炎をオフィスから目撃し
これは、とんでもないことになっているのかもしれない、と多くの同僚が実感した。
その頃からUstreamでニュースを確認し始めるメンバーが現れ
津波の映像を目撃し、震源が東北であること、
阪神を上回る規模であることが分かった。
最初の揺れ以降、エレベーターは停止したままで
降りることもできないが、昇ってくることもできない。
携帯が通じにくくなり、辛うじてメールで、1階にいるけど上がれない
と、外出中のメンバーから連絡があった。
固定電話の方が通じやすいから、家族との連絡には固定を使うよう指示したが
都内の携帯へは固定からでもなかなか通じない。
すべての路線が停止している、JRは終日復旧の見通しが立たない、
ホテルはどこも満室といった情報が入る頃、僕は災害対策本部にいた。
全社観点から見れば僕が所属するのはラインだが
ライン単位で見ればスタッフなので、こういう時はスタッフが事務局になる。
一応、弊社にも災害時対応マニュアルはあり、エスカレーションフローから
意思決定ボードの設置ルールまで揃っている。
対策本部は社長室直下、経営企画と総務人事が本部事務局
取締役以下各COで構成される意思決定ボードの下部組織として
各ラインの災害対策本部は設置され、僕はそこに位置する。
最初の集合が掛かり、御前会議が開催される大会議室に入ると
モニターの半分にはNHKが映し出され、残り半分には東北地方の地図。
支社、営業所のほか、関係先もプロットされているが
今はまだ、何も追記されていない。
これから何が書き込まれるのか、経験がないからリアルな想像ができない
ただ、これはとんでもないことになるという漠とした不安だけが
抽象なだけに自由奔放に頭と心を駆け巡り、
最終的には喉に詰まって言葉を塞ぐ。
続々と集まるCOの中に伊原さんの姿を見つけ、相手も僕を見つけ
振り向きざまの一瞬に、懸念を眉間に刻んで足早に着席する。
本部事務局から、東北の拠点と連絡がつかない、という報告が入る。
ただ、個人のツイッターを通じて建物に大きな被害はないと確認されたが
いかんせん、個人のツイッターだ。
だが、ツイッターは通じるらしいことも分かり
至急、災害対策専用の企業アカウントを取得し、全社メールで通知する。
これは、マニュアルになかったことだった。
あまりにも、情報が不足している。
本部は全従業員の、ラインは各関係先の情報収集を急ぎつつ
都内従業員の帰宅困難者対策に着手する、
と一先ず手配りが決まった後、
たぶん伊原さんだろう、女川は大丈夫か
と呟いたのが、耳に残った。
それでも桜は咲くけれど。
久方ぶりの更新で、すいません。
震災以降、僕の一身上の出来事などぼやいている場合ではないという気分で
どうにも、書くことができずにいました。
3月のあの日以降、僕が思っていたこと。
天罰だと失言した政治家がいたけれど
天罰なんてものがたとえ存在するとしても
あの人たちの上だけに襲い掛かるべき理由はないし
襲い掛かるべきじゃなかった。
3月の気候は残酷で、
もうこれ以上、あの人たちに冷たい雨を降らせないでほしいと
僕は天気予報を見ながら心を抉る。
少年がいた。
少年の育った港町は波にすべてを奪われ、引き裂かれ
それでも明るい空があり、日差しがあり、カメラを向けられた少年は
屈託も影もない笑顔で、少しはにかみながら話す。
“少し形は変わってしまったけれど、ここの海はきれいです。魚もたくさんいます。
僕は将来、ここで漁師になりたいです。”
生きて行くということ、大地に立ち息づいていくということ
それがどういうものなのか、少年は教えてくれた。
無力であること。無意味であること。
募金をしても、支援物資を送っても
僕の中にはずっと、塞がらない穴がある。
自分にも何かできるのだと、どんな僅かでも誰かを手助けできるのだと
善意の顔をして、僕は結局、自分の存在を証明しようとする。
何もしないことに対する罪悪感ではなく、
何もできないことに対する無力感から逃れるため。
感謝の言葉に心の真ん中が温かくなった後にはすぐ
エゴ、卑しさ、後ろ暗さが追いかけてくる。
こんなことしか書けないので
しばらく更新を止めていました。
今もまだ、そんな状態です。
震災以降、僕の一身上の出来事などぼやいている場合ではないという気分で
どうにも、書くことができずにいました。
3月のあの日以降、僕が思っていたこと。
天罰だと失言した政治家がいたけれど
天罰なんてものがたとえ存在するとしても
あの人たちの上だけに襲い掛かるべき理由はないし
襲い掛かるべきじゃなかった。
3月の気候は残酷で、
もうこれ以上、あの人たちに冷たい雨を降らせないでほしいと
僕は天気予報を見ながら心を抉る。
少年がいた。
少年の育った港町は波にすべてを奪われ、引き裂かれ
それでも明るい空があり、日差しがあり、カメラを向けられた少年は
屈託も影もない笑顔で、少しはにかみながら話す。
“少し形は変わってしまったけれど、ここの海はきれいです。魚もたくさんいます。
僕は将来、ここで漁師になりたいです。”
生きて行くということ、大地に立ち息づいていくということ
それがどういうものなのか、少年は教えてくれた。
無力であること。無意味であること。
募金をしても、支援物資を送っても
僕の中にはずっと、塞がらない穴がある。
自分にも何かできるのだと、どんな僅かでも誰かを手助けできるのだと
善意の顔をして、僕は結局、自分の存在を証明しようとする。
何もしないことに対する罪悪感ではなく、
何もできないことに対する無力感から逃れるため。
感謝の言葉に心の真ん中が温かくなった後にはすぐ
エゴ、卑しさ、後ろ暗さが追いかけてくる。
こんなことしか書けないので
しばらく更新を止めていました。
今もまだ、そんな状態です。
無事です。
今回の地震で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。
また、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
僕の周囲は、全員無事です。
ここのところ更新できないのは、地震後の処理など業務に追われておりまして
ちょっと記事を書く状況でもなく、心境にもなれず
というのが理由ですので、ご安心ください。
また、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
僕の周囲は、全員無事です。
ここのところ更新できないのは、地震後の処理など業務に追われておりまして
ちょっと記事を書く状況でもなく、心境にもなれず
というのが理由ですので、ご安心ください。
郷愁と、親指の傷と。
雪が降っても電車が止まらない朝は、軽い落胆を覚える。
隣家の塀に、やけに小さな雪だるま。
こんなに空気の汚れた街でも、雪は白いのだ
その発見に、心のどこかが鳴く。なんと言っているのか分らない程度に、鳴く。
冬は嫌いじゃないが、それは楽しみが多いからではなく
寂しかったり悲しかったりしても、季節を理由にできるからだと思う。
秋はいけない、際限なく気持ちが沈むから。
あの日、彼を見送った駅が近づく。
待ち合わせた駅から一つ分、歩いていたことになる。
日差しが黄味を帯びる頃に、僕らはホームに立っていた。
カウンセリングとか、行ってみたらどうだ
僕は、そう言うべきだろうことを言う。
たまにね、行ってる
彼はコートの襟を立て、これから向かう北の方角に顔を向けた。
カウンセリングというと僕はつい、ザ・ソプラノズを思い浮かべてしまう。
芝居の中のカウンセラーはたいてい、脚を組んで座るものだ。
トニーの位置に彼を座らせる想像は容易いが、ただそれだけ。
赤裸々にぶちまける彼というのは、どうにも想像できない。
お互い、故郷は遠い。
僕は明日、彼はこのまま、故郷へと向かう。
帰る道が分からない、彼は言ったが
少なくとも、故郷への道は今も変わらず
僕らは互いに、そこへと向かう。
普段は意識したことのない、喉が詰まるような切なさが僕の胸に広がった。
郷愁、とでも言うんだろうか。
帰る道は分かるが、あまりにも遠い。
物理的な距離ではなく、心の隔たり。
今度会った時は
電車の到着を知らせるアナウンスと、彼の言葉が重なった。
いろいろ、話せる気がする。いろいろ、ね
微笑みかける彼に、僕は曖昧な笑顔を返し
そうだな、今度な
と片手を上げた。彼も、右手を上げる。
その親指の傷が、やけに鮮明で
僕はバッグの中の預かり物を思い出し、少し笑顔が硬くなったが
彼がそれに気付いた様子はなかった。
隣家の塀に、やけに小さな雪だるま。
こんなに空気の汚れた街でも、雪は白いのだ
その発見に、心のどこかが鳴く。なんと言っているのか分らない程度に、鳴く。
冬は嫌いじゃないが、それは楽しみが多いからではなく
寂しかったり悲しかったりしても、季節を理由にできるからだと思う。
秋はいけない、際限なく気持ちが沈むから。
あの日、彼を見送った駅が近づく。
待ち合わせた駅から一つ分、歩いていたことになる。
日差しが黄味を帯びる頃に、僕らはホームに立っていた。
カウンセリングとか、行ってみたらどうだ
僕は、そう言うべきだろうことを言う。
たまにね、行ってる
彼はコートの襟を立て、これから向かう北の方角に顔を向けた。
カウンセリングというと僕はつい、ザ・ソプラノズを思い浮かべてしまう。
芝居の中のカウンセラーはたいてい、脚を組んで座るものだ。
トニーの位置に彼を座らせる想像は容易いが、ただそれだけ。
赤裸々にぶちまける彼というのは、どうにも想像できない。
お互い、故郷は遠い。
僕は明日、彼はこのまま、故郷へと向かう。
帰る道が分からない、彼は言ったが
少なくとも、故郷への道は今も変わらず
僕らは互いに、そこへと向かう。
普段は意識したことのない、喉が詰まるような切なさが僕の胸に広がった。
郷愁、とでも言うんだろうか。
帰る道は分かるが、あまりにも遠い。
物理的な距離ではなく、心の隔たり。
今度会った時は
電車の到着を知らせるアナウンスと、彼の言葉が重なった。
いろいろ、話せる気がする。いろいろ、ね
微笑みかける彼に、僕は曖昧な笑顔を返し
そうだな、今度な
と片手を上げた。彼も、右手を上げる。
その親指の傷が、やけに鮮明で
僕はバッグの中の預かり物を思い出し、少し笑顔が硬くなったが
彼がそれに気付いた様子はなかった。

